なんでオタクになりたいの? と問いました。
「だって、楽しそうじゃないですか」
これを聴いて、私は なるほどーーーー! と思ったのでした。
私の定義するオタクとは「濃い」「薄い」で判別します。 すなわち何でも"好きになる"ことでより情報を得ようとして、知識魔神になってしまったのがオタクの姿だと思い続けていました。
この濃いマニア同士の会話というのは、他者には理解できない言語であるが、興味はある。なので、「オタクになりたい」はその理解の糸口を掴みたいといったところでしょう。
そうなると、「お前も濃い人間にしてやるー」といった一世代前のマッチョ主義的オタクが、詰め込み的に知識を教えてこんでも、むしろ逆効果。訳の分からんことを強要されてオタクアレルギーになる可能性が高くなります。
先日、最終的に『らき☆すた』の名前が挙がったのは、平易で共通情報としてのタームが多いからと言う理由によるもので、何でもかんでも自分の好きなものを教えてはいかんのではないかと、思うからなのです。 せめて最低限でもこれぐらいは分かってくれ! という願いみたいなものです。
空っぽのバケツを差し出して、「あなたの知識で一杯にして下さい」といってもこれはとうてい無理な話です。「分からないことがあるので教えて下さい」ならまだ成立します。ですが、時間も手間も有限な人間に対し"なんでもかんで教えて下さい"というのが成立しないのは言うまでもありません。
どうやら、時代から、要求されているのはオタク先生ではないかと思うのです。
「先生、ドラゴンボールのカメハメ波ってなんかハワイと繋がる意味があるのですか!」
「いろいろ説はあるけど、発音とタイミングが面白いからという理由が一番じゃないかと、先生は思います。例えばゴルフスイングの時”チャー シュー メン”というタイミングの取り方があります。
"かめはめ"のまでのためと、"波"の解放のタイミングを取るものと思えば、ハワイのカメハメハ大王と類似性が無くても、「おもしろ言葉」として鳥山明先生がなにげなく使った根拠はあると思います」
みたいなー。 こういう疑問を解決してくれるオタクなんでも先生がいたら私もいろいろ教えを請いに伺いたいくらいです。
「オタクになりたい」は自助努力無しではありえない事になるので、これを突き放すのでなくてどうやって、自力で学べるように手助けしていくかというところに、力点が移ります。
これは教師をやってる人から聞いた先生のお話。社会科を教えてる先生は最初にこういう話をしました。
「ぼくは、これからあなたたちの先生になります。
でも、あなたたちは卒業して、大人になったら全部忘れるでしょう
暗記する知識は、まったく役にたちません。
でも、自分の興味のある知識は、なかなか忘れません
だから、これから1年、あなたたちは先生に質問をして下さい
何故?と思って下さい 先生とみなさんでいっしょに答えを探しましょう
何故 から始まった知識はもっと忘れません
覚えてることだけ、試験に出るなら皆さんは誰でも100点が取れるのです」
疑問を持つきっかけを振りまくのが最初の一歩なのかもしれません。
少々話はそれますが、岡田斗司夫氏の「オタクイズデッド」も含蓄のある面白い読み物なのですが、「死んだ」というより世代的に一個上に持ち上がって教える側にまわって、今度は教えられる側が増えただけといいましょうか。
マッチョな知識魔神も、全部自力で取得する者もいれば、直接先輩オタクから学ぶことから始まっている人間もいます。
ネット時代のオタク知識の伝播体系がかわって、先の「楽しそうだから」から始まるのもまた良いかと。
残念ながらオタクなんでも先生は地球上には存在しません。絶対的な知識量としてムリムリ。すでに一生分を超えるオタク時間が存在し、さらにそれは伸び続けています。それでも知りたいなら、自然と自分で学ぶようになったり、知識の交換が必要になります。
個人的には、知恵の萌芽を樹にすることが、教わることに対する最大のお返しではないかと思ってます。 教える側も充分な余裕があるならケチケチしない寛容さがほしいところ。 うっかりでも一本ぐらい樹が育てば充分なのです。