萌えめーじゅ

 アニメージュ増刊のキャラ誌

 MegamiMAGAZINEのパチもんライクな本ですが、クリエイター側のインタビュー記事があったりと、創作側に寄ってるので、比較的安心して読めます。

 自分も、萌え記事はさんざん書きましたが、難しいのは書き手の立ち位置で「生身のキャラクターとして書くのか」「演出されたキャラクターとして書くのか」でえらい差が出ます。

 だいたいが、「今人気の萌えキャラはこれ!、こんなとこが評価されてるよ!」みたいなとこで落ち着かせていますが、これって作品を知ってる人間にとっては無意味記事になるので、なにかプラス内容が書けなければ、誰でも書ける記事になってしまいます。

 萌えと性癖は紙一重なので、紹介するだけではなくて、読者に余計な性癖植え付けるぐらいの、覚悟が出来てないと萌え系記事は難しいのでした。

 「ミニスカ+黒ストッキングは現代の袴である」記事は結局書けなかったなぁ。げふんげふん

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オタクになりたい5 ニュースサイト活用論

 最近、ちょいと考えているのが、

 日本のオタクはコミケとニュースサイトが支えている説。

 コミケ(同人イベント全般)が、創作に触れる初期段階として機能している。 というのは現在の状況を見るに、おおむね間違いは無いと思います。これは創作(送り出し)側のファーストステップ。

 ほいでは、受け手側のファーストステップは何かというと、「連続してみること」「雑誌を買い始めること」だとずっと定義していたのですが、どうやら、もう一つのステップとして「ニュースサイトをチェックする」というものが機能しているのではないかと思うのです。

 ここで定義として

 オタクはすべてを知るからオタクである。

というのは誤解ではないか?

 オタクはすべてを知る必要はない。好奇心のみがその核である。

 とするのが妥当ではないかと思うのです。

「僕はガン(ダム)オタでーす」みたいな若い衆に「では、ガンダムの星山脚本と山本脚本の物語の相違について語ろうか」とか言ってもポカーンとされるだけですし、「では、逆にガンダムのバージョン・カトキの発表時期と、プラモデルデザインの変遷について語りましょうか」とか返されても、完全にお手上げでバンザイするしかないわけです。

 重要なのは「ある段階で知識の差をもって、薄い/濃い、 知ってる/知ってない」で判定しても無意味と言うことです。 初期ガンダムを知らなくたって、DVD借りてくれば見れますし、プラモデルデザインの変遷ならサイトを調べたり、古本屋で探せば一週間以内に対等なレベルまで持っていけることは可能です。

 ここからはただの愚痴ですが いままで、どれだけ「知ってる」人間から、「知らないこと」をさげすまれたことか。 オタクが非オタを馬鹿にする姿を醜悪であると感じているので「俺は、あなたとは違い、知らないことを教える人間になる」と心に誓ったのでした。知ってるだけで、自慢になるか!  

 あ、はい冷静に戻ります。

 要するに情報源が限られていた時代とは違い、現在では知識差は絶対ではない と言いたいのです。 

 これを前提にすれば「オタクになりたい」で、まずは勉強ありきは、あまり重要ではないと言うことになります。対等に話すなら知識差の穴埋めは重要ですが、他人の知識量に対しとやかく言っても無意味です。

 そこで話は戻ってニュースサイトが出てきます。 ニュースサイトというのは雑多な情報を個人の価値観でフィルタリングして毎日のように更新しているものを指します。

 それを毎日観覧して、自分の感性にあったものを見つけて、知らなければ調べていく という過程の反復だけで充分だと思うのです。

 私の見てる限りですが

  • 親ニュース 情報源から直接拾い出す
  • 子ニュース 親ニュースから選択する
  • 孫ニュース フィルタリングされた子ニュースから拾い出す

 といった感じで情報が伝播していきます。親から孫までの総アクセスを考えると数万単位。情報の拡散共有としては充分な量でしょう。

 ネットで流行ってる。を知ってるだけでも ハタから見ればまんまオタクです。 ニュースの中でも価値の高いものは、爆発的に情報量が増えていくので、それを最初から目撃してると言うだけでもすごいことだと思うのでした。

 ニュースサイト論に関してはまた後日。

 

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オタクになりたい4 内と外&ヘンタイ

 オタクを内視するのと外視するのとではその姿が異なって見えるものらしいです。

 当たり前と言えば、当たり前なのですが、「違う姿に映ってるものを、同じように判断してはならない」ということです。

 内視的なオタクのイメージ

 情報収集の極端化(関連するものなら何でも欲しい)。熱意表現の獲得(イベントに行く、ひたすら消費行動に走る)。自己陶酔。○○馬鹿をこじらせてオタクになった。

 外視的なオタクのイメージ

 ネガティブ:排他的、欲望優先、攻撃性を持つ。

 ポジティブ:価値観を確立している、同一趣味との交友範囲が広い、楽しそう。

 外視的なイメージでも二種類あるのではないかと思います。昨今、キャラクター文化に情熱的といった印象が強くなったのは、大変有り難いことです。

 さて、ここでふと疑問に思ったことがあります。

 「オタク」と「変態」は同義語なのか?

 海外のアニメファンから「ヘンタイワ、ナイノデスカ?(Hな同人誌はあるのか)」などと聴かれるとものすごくモニョります。 たしかに用語的ルーツとしては間違いは無いけれどなんだかこっ恥ずかしい思いをします。 

「ヘンタイ、ノー!”エイチ”!!コールトゥー”エイチ”!!」

「オー、オタクワ、アニメヲジザイニ、ヘンタイデキマス!イッツグレイト!イッツクール!」

 うわわわわわわわわ。

 日本人の感じる「変態」のもつ精神異常者的語感がネガティブなイメージなら、自由自在に改変するスキルを持つはポジティブなイメージと言えるでしょう。(余談ですが、気の利いた外国人なら、最初からエイチと呼んでくれます)

 オタクになりたい が日本人的には先の情報共有体に入りたい。なら

 ワールドワイドな オタクになりたい は改変能力まで備えるセミクリエイト能力を獲得することになります。そうなると、さらにハードルが上がることになります

 同人誌が作れたらオタクで、それ以前はただのファン。 とバッサリ割り切れれば簡単なのでしょうが、一家言持って消費するというのもまた、重要な要素です。

 オタクが多面性を持っているなら オタクになりたい も、多角的に取り組む必要があるわけです。

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オタクになりたい3 キミはなぜ

 なんでオタクになりたいの? と問いました。

「だって、楽しそうじゃないですか」

 これを聴いて、私は なるほどーーーー! と思ったのでした。

 私の定義するオタクとは「濃い」「薄い」で判別します。 すなわち何でも"好きになる"ことでより情報を得ようとして、知識魔神になってしまったのがオタクの姿だと思い続けていました。

 この濃いマニア同士の会話というのは、他者には理解できない言語であるが、興味はある。なので、「オタクになりたい」はその理解の糸口を掴みたいといったところでしょう。

 そうなると、「お前も濃い人間にしてやるー」といった一世代前のマッチョ主義的オタクが、詰め込み的に知識を教えてこんでも、むしろ逆効果。訳の分からんことを強要されてオタクアレルギーになる可能性が高くなります。

 先日、最終的に『らき☆すた』の名前が挙がったのは、平易で共通情報としてのタームが多いからと言う理由によるもので、何でもかんでも自分の好きなものを教えてはいかんのではないかと、思うからなのです。 せめて最低限でもこれぐらいは分かってくれ! という願いみたいなものです。

 空っぽのバケツを差し出して、「あなたの知識で一杯にして下さい」といってもこれはとうてい無理な話です。「分からないことがあるので教えて下さい」ならまだ成立します。ですが、時間も手間も有限な人間に対し"なんでもかんで教えて下さい"というのが成立しないのは言うまでもありません。

 どうやら、時代から、要求されているのはオタク先生ではないかと思うのです。

「先生、ドラゴンボールのカメハメ波ってなんかハワイと繋がる意味があるのですか!」

「いろいろ説はあるけど、発音とタイミングが面白いからという理由が一番じゃないかと、先生は思います。例えばゴルフスイングの時”チャー シュー メン”というタイミングの取り方があります。

 "かめはめ"のまでのためと、"波"の解放のタイミングを取るものと思えば、ハワイのカメハメハ大王と類似性が無くても、「おもしろ言葉」として鳥山明先生がなにげなく使った根拠はあると思います」

 みたいなー。 こういう疑問を解決してくれるオタクなんでも先生がいたら私もいろいろ教えを請いに伺いたいくらいです。

「オタクになりたい」は自助努力無しではありえない事になるので、これを突き放すのでなくてどうやって、自力で学べるように手助けしていくかというところに、力点が移ります。

 これは教師をやってる人から聞いた先生のお話。社会科を教えてる先生は最初にこういう話をしました。

「ぼくは、これからあなたたちの先生になります。

 でも、あなたたちは卒業して、大人になったら全部忘れるでしょう

 暗記する知識は、まったく役にたちません。

 でも、自分の興味のある知識は、なかなか忘れません

 だから、これから1年、あなたたちは先生に質問をして下さい

 何故?と思って下さい 先生とみなさんでいっしょに答えを探しましょう

 何故 から始まった知識はもっと忘れません

 覚えてることだけ、試験に出るなら皆さんは誰でも100点が取れるのです」

 疑問を持つきっかけを振りまくのが最初の一歩なのかもしれません。

 少々話はそれますが、岡田斗司夫氏の「オタクイズデッド」も含蓄のある面白い読み物なのですが、「死んだ」というより世代的に一個上に持ち上がって教える側にまわって、今度は教えられる側が増えただけといいましょうか。

 マッチョな知識魔神も、全部自力で取得する者もいれば、直接先輩オタクから学ぶことから始まっている人間もいます。

 ネット時代のオタク知識の伝播体系がかわって、先の「楽しそうだから」から始まるのもまた良いかと。

 残念ながらオタクなんでも先生は地球上には存在しません。絶対的な知識量としてムリムリ。すでに一生分を超えるオタク時間が存在し、さらにそれは伸び続けています。それでも知りたいなら、自然と自分で学ぶようになったり、知識の交換が必要になります。

 個人的には、知恵の萌芽を樹にすることが、教わることに対する最大のお返しではないかと思ってます。 教える側も充分な余裕があるならケチケチしない寛容さがほしいところ。  うっかりでも一本ぐらい樹が育てば充分なのです。

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オタクになりたい2 何か見よう

 昨日の続き

「その、好きなものがみつからないんです!」

 とか言われるとさすがに途方に暮れてしまいます。好みは性格や生活環境に左右されるものなので、他人からは知るすべもありません。 古典だからといって『機動戦士ガンダム』とか『宇宙戦艦ヤマト』とか薦めても、なにぶん30年前のアニメなので本当に面白がってくれるか何とも微妙。『新世紀エヴァンゲリオン』も突っ走った先が崖っぷちダイブといった感じのひどいオチなので、新劇場版でちゃんと決着つくまではお薦めしたくないシロモノ。この先、どうなるんですか!」とかワクワクしながらきかれても「どうにもなりませんでした」って言うしかありません。

 で、『ハルヒ』と『らき☆すた』が今時の入門には良いのではないかと思うのですが、正直DVDで原作の順番通りにみたハルヒは今ひとつ面白くない。(言ってしまえば)神がかり的な能力を持ったヒロイン(ハルヒ)を、落ち着かせるために男をあてがわれるという話で、その男たる主人公(キョン)はヒロインをそんなに好きじゃない。主人公とヒロインとうまく結びついて大団円になるのか、はたまた違うことになるのか、というのが現在進行中なのでそこが面白い!と思えるようにならないと、かなり辛い。

 最終的には『らき☆すた』はオタク女子(こなた)にツッコミ入れる一般人(かがみ)という掛け合いを発明したところが面白いのでかがみが主人公だと思って『らき☆すた』を見るのが一番無難ではないかと思うのでした。

 『宇宙戦艦ヤマト』は敵(列強)を打ち破って帰ってくると言う海外雄飛の戦前的ロマンシズム、『機動戦士ガンダム』は他人との接触もろくに持てない主人公が、戦闘という自己表現を経て最終的に「ホワイトベース」という小さな社会の中で、無くてはならない存在になると言う、成長劇として良くできたお話なので、この2本無くして何を語ろうや、というのが個人的な考えではあるのですが。

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オタクになりたい

「オタクになりたいんです」

 そんな風に言われたら、あなたはどう答えますか?

 私の持論としては、オタクなどと言うものは、なろうとしてなるものではなく、いつの間にかなってしまうもの。ってなとこですが、どうも最近の「オタク」イメージだとなんだか共通する知識を持っていないと、オタクにはなれないんだとか。

 例えば「初音ミク」に関してなにか言えるとか、人気アニメの共通話題がすらすら出てくるとか、まあ確かに言われてみればハードルが高そうにも思えます。オタクと言われる中でも「もってけ」で"セーラー服"が出るか、"菅野よう子ウンチク"が出るかでもえらい差がありそうですが

 敬愛する黒澤明監督の言葉で、こういう言葉があります。

「好きなものを見つけなさい。

 好きなものが見つかったら、そのために一生懸命努力しなさい」

 これがすべてだと思います。好きなものが無いところの知識など、持ってるだけ脳の容量の無駄のような気が私はします。「あんたオタだね」ってのはその後で付いてくる言葉じゃないのでしょうか。

 ちなみに上記の言葉は映画『まあだだよ』で、内田百閒師弟のエピソードとしても使われています。興味のある方は是非観て下さい。

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オタクと経済

 オタクを「好嫌主導型価値感主義(こうけんしゅどうがたかちかんしゅぎ)」と定義してみましょう。

 オタクの価値観は4段階に別れます。

  • 好き
  • 関心
  • 無関心
  • 嫌い

 の四つです。基本は好き嫌いで、これに無関心の度合いが間に挟まります。

 単純に言うと「好きなもので幸福感を得ること」。普段の生活が好嫌を言ってる場合ではない状態では、オタクというものは育ちません。 嗜好を良いものと思わない文化圏ではなかなか育成されないものです。~厳しい戒律のある宗教文化圏など。

 好嫌が価値基準になってくる。 これは全体にも関わることで、例えば嫌いな人間などがいたら、それを排除することで価値観を防衛するようになります。いじめ問題や家庭内の不和もまたしかり。嫌いが許容できないというのは強いマイナス面も内包しています。

 上位の「好き」にマークされると、財布がゆるくなります。金銭により幸福感を交換するので資本主義形成としては、重大な役どころにあることは注目すべきかと思います。お金を使えば幸せになれる。この原則には誰よりもバッチリはまっているのです。

 「関心」もマークされると、消費行動が動きます。例えばアイテムコレクションなど、少々「好き」から脱していても購入対象にカウントされます。

 「好き」と「関心」、この二つは満足感によって決定されます。本能的な「性属」が一番わかりやすい満足感で、    ・・・えーと    下品な話ですみません    ・・・要するにオナニーの対象となれば最上位の価値観を持ってるわけです。はい

 次に満足感の基準として、「エンタテインメント属」が来ます。「面白いor楽しい」です。日本の文化史をひもとくと、天下太平の江戸時代、特に江戸はエンタテインメントの世界であったと言ってもいいらしく、「おもしろき」を価値観とする民族性はすでに確立されていたのではと考えます。

 経済で考えるなら「お金の使い先がある」ことは重要です。 

 「性的なもの」「面白いもの」を二大基準とするなら、同人誌文化というのはまさにプリミティブ(原初的)な消費活動であって、実はここに文化形成の中心点があるのではないかと思います。 逆の視点、「提供する側」にとっても極限まで低いハードルではじめられることも重要視すべきでしょう。

 「価値の満足感」このポイントをいかに押さえるか、うまく拡大化していくかが今後の課題ではないかと考えています。

 経済論で言えば社会に不安を覚えれば、将来のために備蓄をはじめるために、経済の動きが弱くなり不況に繋がります。

 「アリとキリギリス」でアリを美徳する日本人にとっては浪費するキリギリスは、馬鹿げた存在に見えます。DVDだ、アイドルだ、フィギュアだと極限まで消費しまくるオタク者は典型的なキリギリス型です。

 しかし、「キリギリスがいることによって国が潤う」ということもまたしかり。

 基本的に私もオタク万歳な人間ですが、将来になると不安しかありません。それでも「価値あるもの」には消費を惜しみません。

 もっと「満足感」に関して作る側、受け取る側で、本気で取り組む必要があると思います。

 消費の大循環によって、経済がよくなり、将来が不安にならない程度の備蓄も自然にできる。これがベストの姿ではないのでしょうか。

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萌え論

思いついたことをつらつらとメモ代わりに。

なぜ、日本で「萌え」というものが発生したのか。これを「清めの思想」があるからと仮定してみる。 

1.「清きものの優位」は日本のみではありませんが、古来から「カミ」(神=ゴッドではない)の存在を当たり前のように感じていた日本人は、偶像崇拝に対する忌諱(きい、きき)がほとんど無い。

2.日本はその大衆文化の渦中でマンガアニメなどのキャラクター文化を戦後爆発的に生み出した。その中で少年少女が主人公であることが多い。これは童貞処女と言った「ケガレなきもの」の要因が大きいと考えてみる。

3.登場人物が架空である以上、その存在には還俗的な「ケガレ」をうけない清きものである。登場人物には性行為のするしない、思想的な悩みなどがあるが、もとより架空のものなので受け手の感情の持ちようによって補正がきくものとする。

4.では「萌え」とはなにか? これは「かわいい」の文化および思考を理解することが大切だが、その構成因子として「偶像崇拝」がある可能性は否定できないのではないだろうか。「清きある少年少女」は日本人が潜在的に持つ崇拝の対象であるために、これまた童貞処女、またはそれに準ずる貞操観念を持った人間たちに支持されたと見るのはどうだろうか。

5.「萌え」とは「少年少女への幻想崇拝である」とするなら「シンボル」として「メイド」などが有効なのも不思議ではない。

 以上思考実験の垂れ流しなので、反論などは無用です。

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