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少女美、少年美論

 弥生美術館で乙女のイコン展開催中です。

 大正、昭和初期の少年、少女雑誌というのは、私たちの考える近代ロマンチシズムの源流があると思います。

 19世紀末に花開いた、アール・ヌーボー(新しい芸術)が、日本芸術(私は主線<おもせん>文化と思ってますが)に影響を、受けていると言われています。

 そのアール・ヌーボーというのは工業技術の発展による、大量生産時代のデザイン文化で、世界各地のデザイナーに影響を与えたのはご存じの通り。その源流の国日本では、線描による表現というのが、脈々と受け継がれていて、<浮世絵>と<アニメ絵>のブリッジになるのが大正、昭和初期の印刷技術発展による、通俗文化であると考えます。

 乙女のイコン展で注目して頂きたいのが、男性作家による少女絵で、これはある種日本人特有の少女美、少年美が児童雑誌の勃興により確立されたものではないかと思います。

※ここから先は違う話です。下品な話を含みますので要注意!!

 西洋の思想基軸が一神、万物創造の神であり、神の最高の造形物が人間とするなら、それ以上の美は無いとするのが自然な発想。 日本人は人間さえも自由闊達に描写することで、創造に対する枷がない世界を作り上げた。これが今のオタク的なものの、始まりではないかと考えます

 少女美の、さらに源流を追うなら、巫女崇拝ではないかと思います。神託と受ける受動的な物と同時に、神の代わりであるものと、まぐわりたい、性交したいというのは、西洋思想ではまずあり得ない、願望であるとおもいます。

 少女、少年を神聖視する過程での美化が、近代、大衆と向き合うことで洗練されていったのではないでしょうか。極論を言えば美少年美少女は宗教的イコン(象徴)であったということです。

 さて、少女、少年と(ぶっちゃけたはなし)性交したいというのが、根源的な願望であるとしても、現実問題、本人が望まぬ形で遺物を挿入され、体液を混ぜ合わされるというのは、想像を絶する苦痛である訳で、人道的にも未成年は絶対的に保護せねばならないという、意識は強く持たねばなりません。<キヨラカナルモノ>と交わりたいというのは、片方にとって「清め」であっても、片方にとっては「穢(けが)れ」なのです。

 生身NGの中、憧憬的な願望を、自らの想像の元に紙やフィルムに転写していったのが、「オタク文化」を産み出す日本人の意識的なエネルギーではないかと思うのです。<永遠にキヨラカナルモノ>への願望が、度を超えると、非処女を嫌がる、お子様的な迷信に転ずることもままあるので、弊害もあります。

 地域にもよりますが昔は「七つ八つはカミのうち」と言って、子供は天からのありがたい授かり物という認識もありました。その「カミ」的なもの<キヨラカナルモノの人間化>のひとつが恋愛ではないかと考えます。

 女性側がヒトとして自分を認めて貰いたい恋愛意識が強いのに対し、男性側は、その能力によって、周囲に認められるかが決まるので、恋愛によっては自己は確立しないとも言えます。男性視点の萌え物では主人公が恋愛していないことが多いというのは、こういった意識なのかもしれません。

「男性は能力を認められない限り、子供の性質を持ち続ける」とも言えます。クリエイターにお子様気質人が多いのは、永遠に認められることのない不安感の裏返しというのは、空想しすぎでしょうか。

 まずは、少女、少年崇拝は信仰である。という意識的なセットをする必要があるのではないのでしょうか。そのうえで人の営みに生きるところをちゃんと立脚しないと、しまいには異性はバーチャルで充分、とかいう話になっちゃうのだと思います。

 わかりやすく言うなら「アニメ(空想)キャラで、オナニーするのは浄化願望なので、精神異常じゃないよ」「美少女、美少年が大好きなのは、信仰にちかい。これは日本人が創造能力を真っ先に確立しただけで、他の国でも同じかもよ」「生身を、信仰とごっちゃにするなかれ、生身に萌え要素はあっても、萌えじゃ無ぇ」

 てなとこですか。

 

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