ヤマト2199をラストまで映画館で鑑賞。
これまでの努力多き結果に、一大プロジェクトを終えつつある関係者一同に、アニメを見るのが好きな人間として、感謝と深い敬意を示したいと思います。
ヤマトを再生するというのはそれこそ軽いレストアレベルでは済まなくて、根幹的な部分から再設計となり、「オリジナルの形、フィーリングを再設計で残す」というのがなかなか困難な作業になったと思います。
錆びたシャーシに新しいボディを載っけてもしょうが無いのです。
旧「宇宙戦艦ヤマト」、すなわち70年型の物語モデルは現在ではもはや通用しません。
だからこそ2199は新しい要素を詰め込んで,現代の物語にリビルドする必要があったので「原作と違う」なんて言う意見はおおよそ見当外れも良いとこです。
何故ヤマトに新しいものを加えていったかを考えると2199というのは、別の視点で面白くなると思います。
・女性クルーが増えたのは、視覚的な意味もありますが、軍艦という死を象徴する船に生命を誕生させる女性を乗せる意味というのは、大きかったと思います。
・ガミラス側のエピソードにしても、どういう支配体制で何故地球侵攻したかのバックボーンを考えて、2199の戦闘場面の一秒単位で意味を持たせるというのに、一役買っています。
多分、雑魚メカの爆発ワンシーンにおいてもなにがしか意図があるのでは無いかと思うのです。
ヤマトというビッグタイトルを預かった人たちが作った、現状ベストがこの形なのではないかと思います。
と、まあ、何をやりたかったを重々察する努力をした上で、ヤマト2199は各所にエピソードのぶん投げをやっているような気がしてなりません。
○3人目のイスカンダル人、ユリーシャの登場。
・正直最期まで見て何の意味があったのか分からない。
森雪と似てるのは観客引っかけの誤誘導で、結果他人のそら似?
・仕方なく航行装置に仕込まれているというのは、途中死亡する可能性は一切考えていなかった? サーシャはなぜその肉体保存方法がとられなかった?
・使者として来たとは思えない、幼児的なメンタリティ。
○古代進の立ち位置
・オリジナルだと血気にはやる戦闘少年だったのが、今回は軍属という立場をわきまえた物わかりの良すぎる人物像に改変。その結果ヤマトにおける主役位置の消失。
・森雪救出作戦でヤマトを飛び出すが、どうやって助けるかはノープランという無計画性。
結果、「たまたま森雪はガミラス人に解放され、古代は偶然それを見つけました(しかも無戦闘)」という驚愕の展開。 なにしに出て来たの?
・後半戦闘中に「ユキー!」って叫んでる事が多く、公私混同戦闘指揮者としては不適格なのでは。
・任務で死傷者を出していながら、森雪の死は隠そうというこれまた公私混同。
・おいおい、死体を抱きかかえるのは無いだろう。 原作にあったシーンとしてもあからさまに不自然。
○森雪って何者?
・最初は敵対的な異性として現れる。しかし異性として認識して、愛情を強く感じる対象というのが原作の立ち位置。
これで2199の森雪が、古代に感化されて任務のために決死行動を覚悟するというところまで描き込めれば言うことは無いのですが、どうやらそう言うわけでは無し。
・ピント外れの扱いを終始受けて「はぁ?」「はあ?」言ってるだけの印象。
○ドメルの扱い
・2199で力を入れた描写が多かったのは分かりますが、あからさまなロンメルモチーフのため、ガミラスの描写がすべて、ナチス政権下ドイツのコピーになってしまい、「異性の文化であるガミラスがヨーロッパの風景的」になっています。
そうなると第二次大戦のヨーロッパ戦線映画のパロディ、あるいはイタダキの羅列にしか見えなくなってしまい、宇宙で潜水艦戦モドキを始めるに至っては「Uボート」「眼下の敵」他モロモロのパクリでしょ。 ってことにもなってくるのです。
・ドメルが何故戦うのか、精神的バックボーンが今ひとつ不明でした。(女房、死んだ子供への理想世界のため?) そのため「いかにも軍人名セリフ」みたいなのが実に薄っぺらく聞こえます。
・ドメルの最期は「何故、我が身と引き替えにヤマトとの心中を選んだのか?」
何をドメルは得ようとしたのか?
軍人同士の尊敬なら、戦局が決したら引き上げて再戦の機会をうかがうべきで、特攻作戦を敢行するなら、ガミラス本星を死守する。「ここでヤマトを仕留めなければならない」という確信、覚悟の現れであって欲しいわけです。
・で、事もあろうに「よかった波動防壁間に合いました」で物語上無意味にしてしまうわけです。
・その後、「ドメル追悼式典の開催、ガミラスの人民の熱狂」に繋がるわけですが、だったらガミラス本星に突入したヤマト、をドメル支持者が狂気的に反撃するシーンがあってしかるべきなのではないかと思うのです。
このあたりが機動戦士ガンダムのガルマザビ追悼式典のコピーにしかなっていない気がします。
○デスラー総統の迷走
・行動原理がスターシャへの愛情とするなら、異星人の男に寝取られてるだけでもう哀れ。
しかも、最期まで気がついていないという道化振り。
・ヤマト、ガミラス本星に到達してから、唐突行動多発。
制作側の意思として「波動砲の存在意義」を考えて、「ガミラスへの物理的危機を敵であるヤマトが波動砲で阻止する」というのは意味があると思います。
でも、そのために突如として、「脱出~別にガミラス本星なんかどうでもいいから、第2バレラスでボカンしちゃえ」ではあまりにも意味不明すぎます。
いやいや、あんたの目的はスターシアのための銀河統一戦争で、その基盤の本星無くしちゃ駄目でしょう。
このお馬鹿行動でヤマト2199がかなりグダグダになりました。
「犠牲が必用だ」とか言う脚本上の屁理屈は沢山です。
・副官ミーゼラの「きゃあ、デスラー総統生きてたー ニパァ(嬉しい)!」>「テレバシーうぜえぇ、バーン」からの「デスラー憎いわ」の茶番劇は一体何ごとかと。
巻き添えで
「テレポーテーション的超絶肉体運動で、弾道の間に入り込む森雪が死亡(瀕死でした)」
ってもう、あきれかえるばかりなのです。 森雪がなんで自分の一命と引き替えにミーゼラを救おうとしたのでしょう? 誰か愛する女として共感するからの衝動的行動でしょうか?
それは行動原理として納得いくことでしょうか?
○スターシャの色ボケ
・デスラーからの愛情を理解しつつ、地球人捕虜とイチャイチャしていたという、二股キャラ。
・自分とこの波動テクノロジーが、そもそもの覇権争いのきっかけになったのに、それを軍事利用したからコスモリバースは渡さないという手のひら替えし。 無責任女王
○沖田の死
沖田艦長というのは「決死の航海に挑み、次世代の成長にすべてをかけた」人物だと思うのです。
その沖田が復路では「犠牲を出した自分だが、一目地球を見たい」と思うところに、ヤマトのラストシーン「何もかも皆懐かしい」が生きてくるのだと思うのです。
後半は沖田の生きる意思を描くシーンが欲しかったのですが、どうもそこには関心があまり向いていないようです。
軍事的な戦いから、沖田が生きる戦いに移行しての勝利(地球まで帰ってきた)だから、泣けるシーンだと思うのですが。 その辺の描写無しに泣きました。っていうほど2199沖田に皆さん感情移入できてるんでしょうか?
・沖田の死と対象に結婚式のシーン(新たなる生命)が挿入されるわけですが当然
「地球では瀕死になってヤマトの帰りを待ちわびているのに、おまえら何やってんのじゃ!」
って事ですよね。 多分地球のSNSで炎上してるでしょう。
・新しい生命を予感させるのは古代と雪が担うべきところを、奇跡話になってしまうところがもはや意味不明。
おいおい、古代守さんは地球を救うナンチャラを森雪に使ったらいかんでしょう!
ここにきて、兄弟愛と言う馬鹿行動ですか?
駄目になったのに数分後には奇跡で復活? なにそれ? 皆さんこのラストに納得してるんでしょうか?
沖田の意思を受け取ることによりヤマトがコスモリバースとして発動したんではないかなーと思うのですが、その説明は無かったような。
他にもデスラー砲からなんでヤマト助かったの?とか粗雑な部分が多数あります。
リビルドという作業工程で、色々と詰め込みたいのは分かります。でもそれが一緒に混ぜ込まれてはもはやオリジナルの良い部分も毀損しているような感じがしてしまいます。
やりたいことがあるなら、もうちょっと整理して上手くやって欲しかったです。
というのが2199の感想です。